メンタルヘルス対策と定着率向上に関して

――人的資本経営の実務から見る相関構造――

はじめに

福岡市を拠点に、企業の人事課題解決に10年以上携わってきた。また職業相談・キャリアコンサルタントとして20年にわたり、多くの求職者や現職従業員の相談に応じてきた。以下は、その実務経験から得た所見であり、業種・企業規模等によって当てはまり方は異なりうる点をあらかじめお断りしておきたい。

近年、多くの経営者や人事責任者から聞かれるキーワードが「人的資本経営」である。人件費を抑制すべき費用と捉える従来の発想から、人材を投資対象として捉え、その価値を引き出すことで企業価値を高めようとする発想へのシフトが進んでいる。

本稿で扱う「メンタルヘルス対策」「定着率」「経費」の3テーマは、人事実務ではしばしば別個の課題として扱われる。しかし、実務の現場でこれらを見てきた立場から言えば、三者は相互に関連し合う傾向があると考えている。以下、その関係性について、筆者の経験から見えてきた仮説を述べたい。

1. メンタルヘルス不調をめぐる構造的要因

厚生労働省の「労働安全衛生調査」等では、職場のストレス要因として人間関係や業務量、役割の不明確さなどが継続的に挙げられている。ただし、発生率や有効な対策は業種や企業規模によって差があり、一律に論じることはできない。

筆者自身の相談対応の経験からは、メンタルヘルス不調は突発的というより、組織側の要因が積み重なって表面化するケースが多いと感じている。特に以下の3点は、多くの相談で共通して見られた傾向である。

・役割・評価基準の曖昧さ――何をどこまでやれば評価されるかが不明確な状態は、従業員に心理的負荷を蓄積させやすい。

・対話機会の形式化――1on1等が形式的な進捗確認に終始すると、不調の予兆を早期に把握しにくくなる。

・特定人材への業務集中――「できる人」に業務が偏る運用は、短期的には効率的に見えても、当該人材の負荷が閾値を超えた際に組織へのダメージが大きくなりやすい。

これらはあくまで筆者の相談実績から見えた傾向であり、すべての組織に一様に当てはまるとは限らない点に留意されたい。

2. 定着率と内的動機

定着率は、単に離職者数を表す指標にとどまらず、組織の持続可能性を示す指標として注目度が高まっている。

筆者のカウンセリング経験からは、近年相談に来る若手層ほど、終身雇用への期待よりも「成長機会」「フィードバックの質」「キャリアの見通し」を重視する傾向がうかがえる。ただし、これは筆者の相談実績に基づく印象であり、世代全体を代表する統計的知見ではないことを付記しておく。

3. 実務上有効と考えられる施策

筆者の実務経験上、以下の3点は一定の効果が見られた施策である。

・キャリア面談の制度化――年1回の形骸化した面談ではなく、四半期など複数回の頻度で、本人の目標・現在地・課題を言語化する機会を設ける。

・評価基準の透明化とフィードバックの充実――評価根拠を定量・定性の両面から言語化し、伝達に十分な時間を割くことが、納得感の醸成につながりやすい。

・管理職への教育――傾聴・承認・適切な課題設定といったスキルは、現場の心理的安全性に直結すると考えられる。

これらの施策の効果は、企業の状況によって差が出ることが予想され、導入にあたっては自社の実情に即した設計が求められる。

4. 経費構造との関係

早期離職が発生すると、求人広告費等の直接コストに加え、選考工数や教育コストといった間接コストが生じる。一般的に、採用から戦力化までには相応の投資が必要とされており、早期離職はその投資の回収を難しくする一因となりうる。

一方で、定着率が改善すれば、採用頻度の低下や教育投資の回収期間確保につながる可能性がある。ただし、これらの効果の大きさは業種・職種・企業規模によって異なるため、個別の試算なしに一般化した数値を示すことは避けたい。

なお、業績悪化時に人件費や研修費を短期的に削減する対応は、結果として翌期以降の採用コスト増加を招く例を、筆者は複数の支援先で見てきた。この点は、短期的なコスト最適化の判断に際して留意すべき論点と考える。

結論

「メンタルヘルス対策」「定着率」「経費」は、完全に独立した課題ではなく、相互に関連し合う可能性がある――これが、筆者の実務経験から得た仮説である。

役割・評価の明確化と対話の質の向上が心理的安全性を支え、それが定着率に、そして中長期的な経費構造に影響しうるという流れは、筆者が複数の支援現場で観察してきた傾向である。ただし、これはあくまで一実務家の知見に基づくものであり、効果の程度や再現性については、今後さらなる検証が望まれる。

人的資本への投資を単なるコストと捉えるか、価値創出への投資と捉え直すか。この視点の転換は、多くの企業にとって検討に値するテーマだと考えている。